フェスティバルに託すヒロの希望
今ではフラ界最高峰の祭典として知られるメリーモナーク・フェスティバルは、1971年、ハワイ島ヒロの復興を目的に始まりました。
きっかけは、1960年のキラウエア火山の噴火と、その後の経済低迷です。噴火はカポホ村を壊滅させ、観光業も大打撃を受けました。
町には空き店舗が増え、地元の人々の間には「ヒロはもう昔のように戻れないのでは」という空気が漂っていました。

町の再生を願った人びとの想い
当時のヒロ商工会議所(Hilo Chamber of Commerce)は、町に再び人を呼び戻す方法を模索していました。
そこで浮かび上がったのが、かつてのハワイ王、カラカウア大王──「メリーモナーク(陽気な君主)」の名を冠した祭りの開催でした。
発案の中心人物となったのが、クムフラ(フラ指導者)であり文化保存活動家でもあったジョージ・ナオペ(George Naope)です。彼は、観光目的のフラではなく、本来の伝統的なフラを守り、次世代へ継承する場をつくろうと考えました。

Public Domain Lunahauanio, via Wikimedia Commons “Uncle George.jpg”, modified for use.
大会ではなかった時代
1971年、第一回メリーモナーク・フェスティバルがヒロのカナカオレ・スタジアムで開催されました。初期のフェスティバルは、今のようなコンペティションではなく、地元の人々が楽しむ文化祭のようなものでした。
フラだけでなく、ハワイアンミュージック、クラフト、市場なども行われ、町に久しぶりの賑わいが戻りました。
それでも当初は、客席が空いていたり、資金に苦労したりと、決して華やかではありませんでした。
フラ競技大会としての進化
1970年代後半から、メリーモナークは次第に競技形式へと移行していきました。とくにクムフラのDottie Thompson(ドッティ・トンプソン)がディレクターに就任したことで、運営体制が整い、出場者の選定も厳格化されました。
出場できるのはクムに認められたハラウのみ。演目はカヒコ(古典フラ)とアウアナ(現代フラ)の両部門に分かれ、衣装やチャンティング、所作すべてに厳密な評価基準が設けられました。
この厳しさこそが、ハワイ文化の継承に対する真剣な姿勢を表しており、次第に世界中のフラ関係者から「最高峰の舞台」として認識されるようになったのです。

© CC BY-SA 4.0 Thomas Tunsch / Hula dancers (DSC4895).jpg (Wikimedia Commons)
