【歴史⑪】王国を守り愛を貫いた王─カメハメハ4世、苦悩と改革の日々

目 次

即位したカメハメハ4世の挑戦

若き王の苦悩と誓い

1855年、アレクサンダー・リホリホ(Alexander Liholiho)は、わずか20歳でハワイ王国第4代国王カメハメハ4世として即位しました。叔父であり師でもあったカメハメハ3世の死は、王国全体に深い悲しみをもたらしましたが、同時にハワイは新たな時代へ進まざるを得ませんでした。
カメハメハ4世が即位した頃、ハワイは西洋列強の影に脅かされる危うい状況にありました。彼自身も、若き日に英国(England)やフランス(France)を訪れた経験から、ハワイが無防備でいることの危険を痛感していたのです。
王は、ただ外国を受け入れるだけではハワイが飲み込まれてしまうと理解していました。しかし一方で、西洋文化や制度を完全に拒むこともできませんでした。史料には、彼が「王国を守るためには知恵と勇気が必要だ」と語った記録が残っています。
その胸には、エマ王妃(Queen Emma)との絆と、愛する人々を守りたいという強い想いがありました。こうしてカメハメハ4世は、王として、そして一人の人間として、苦悩と決意を胸に新たな時代の扉を開こうとしていたのです。

出典:Hawaiian Historical Society(https://www.hawaiianhistory.org/)

クイーンズ・ホスピタルの誕生

王と妃が願った民の救い

カメハメハ4世、アレクサンダー・リホリホ(Alexander Liholiho)は、即位後まもなく深刻な問題に直面しました。それは、西洋との交易が活発になる中で持ち込まれた疫病(disease)が、ハワイの人々を次々と苦しめていたことです。特に天然痘(smallpox)の流行は王国に甚大な被害をもたらし、多くの命が奪われました。
これを目の当たりにした王とエマ王妃(Queen Emma)は、深い悲しみに包まれます。エマ王妃は医療の重要性を強く訴え、王もまた「民を救うために国ができることをしなければならない」と決意しました。
こうして1859年、王とエマ王妃はクイーンズ・ホスピタル(Queen’s Hospital)の建設を発表します。王と妃は自ら資金集めを行い、王族だけでなく外国商人や一般市民からも寄付を募りました。史料には「王と妃が自らの手で人々を救おうとした」と記され、民の間で大きな感動を呼んだと伝わっています。
クイーンズ・ホスピタルは、単なる病院ではありませんでした。それは王と妃が愛する民を守ろうとした、ハワイ王国の誇りであり希望の象徴となったのです。

出典:Hawaiian Historical Society(https://www.hawaiianhistory.org/)

アルバート王子の誕生と悲劇

王家に訪れた希望と涙

カメハメハ4世、アレクサンダー・リホリホ(Alexander Liholiho)とエマ王妃(Queen Emma)の間に、1858年、待望の男児が誕生しました。その名はアルバート・クナウアケア王子(Prince Albert Kamehameha)。王家と民衆は、この王子の誕生に大きな喜びを沸き上がらせました。アルバート王子は、ハワイ王国の未来そのものと見なされ、王と妃にとっても希望の光でした。
史料には、王が「この子こそが、新しいハワイの象徴になるだろう」と語ったと伝わっています。王子は聡明で愛らしく、王も妃も深い愛情を注ぎました。民衆もまた、王子の存在に王国の安定と未来を重ねていたのです。
しかしその幸せは、あまりにも短いものでした。1862年、わずか4歳のアルバート王子が病に倒れ、その命を落としてしまいます。突然の悲報に王と妃は深い悲しみに沈み、王宮には喪の色が満ちたと記されています。カメハメハ4世は息子を失ったショックから、公務も手につかなくなったと言われます。
アルバート王子の死は、単に王家の悲劇にとどまらず、民衆にとっても大きな衝撃でした。それは王国全体の希望が絶たれたかのように受け止められ、王と妃に深い影を落としたのです。

出典:Hawaiian Historical Society(https://www.hawaiianhistory.org/)

病と苦悩の中の統治

心を覆った悲しみと国の行方

アルバート王子(Prince Albert Kamehameha)の死は、カメハメハ4世、アレクサンダー・リホリホ(Alexander Liholiho)に深い悲しみを刻みつけました。史料には、王が長く王宮の部屋に閉じこもり、誰とも会わずに過ごした日々が記されています。王の心には「愛する者を守れなかった」という痛恨の念が残り、それが王国の政治にも大きな影を落とすこととなりました。
しかし、国を率いる立場にある王は、悲しみに沈んでばかりはいられませんでした。西洋列強の圧力は依然として続き、ハワイ王国の独立を守るための外交は待ったなしの状況でした。カメハメハ4世は自らを奮い立たせ、外国使節との交渉や、内政の安定に力を尽くしました。
この時期、王は宣教師(missionary)の影響を警戒し、過度な西洋化を防ごうとする政策にも取り組んでいました。史料によると、「ハワイは西洋のものでも東洋のものでもない。私たち自身の国だ」という彼の言葉が残されています。彼はハワイ人としての誇りを守るため、慎重に国の針路を選ぼうとしたのです。
しかし心身の疲労は深刻で、王自身の健康も次第に蝕まれていきました。その苦悩と孤独は、やがて彼の命を短くする運命へと繋がっていくのです。

出典:Hawaiian Historical Society(https://www.hawaiianhistory.org/)

カメハメハ4世の最期と残したもの

短い治世に刻まれた深い足跡

カメハメハ4世、アレクサンダー・リホリホ(Alexander Liholiho)は、アルバート王子(Prince Albert Kamehameha)の死からわずか1年後の1863年、まだ29歳の若さでこの世を去りました。病と心労が積み重なった彼の最期は、王国全体に深い悲しみをもたらしました。史料には、王が最期まで「民を守りたい」と願い続けた姿が記されています。
彼の治世は短かったものの、憲法(constitution)の整備、外交での独立の維持、そしてクイーンズ・ホスピタル(Queen’s Hospital)の創設など、その功績は計り知れません。エマ王妃(Queen Emma)も、王の死後に自ら病院運営を支え続け、夫の志を引き継ぎました。
民衆の間には、今も「カメハメハ4世は民の苦しみを自分の苦しみとした王だった」という想いが語り継がれています。彼の短い生涯は、ハワイ王国が近代国家へと歩みを進める中で、大きな道しるべとなりました。
そしてその遺志を継いだのが、次代の王カメハメハ5世です。果たしてハワイ王国はこれからどのような道を歩むのか──物語は次の王へと続いていきます。

出典:Hawaiian Historical Society(https://www.hawaiianhistory.org/)

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