【歴史⑰】奪われた王権─カラカウア王とベイオネット憲法の悲劇

目 次

華やかな王宮の裏で進む陰り

カラカウア王(Kalākaua)の時代は、華やかで文化的な黄金期とも言われます。
イオラニ宮殿(ʻIolani Palace)では美しい舞踏会や音楽会が開かれ、フラ(Hula)が復活し、ハワイ王国は文化の輝きを取り戻したように見えました。
しかしその華やかさの陰で、王国は少しずつ不安を抱え始めていました。
王の浪費とも批判される豪華な生活、王宮の維持にかかる多額の費用、そして王自身の夢であった近代化政策の財政的負担が重くのしかかっていたのです。
また、ハワイの土地や政治に影響力を持ち始めた外国人たちが、王国の内政に口を出すようになりました。
こうした状況の中で、王国の未来に暗い影が忍び寄っていたのです。

出典:Hawaiian Historical Society

ベイオネット憲法──王権を奪われた日

1887年、ハワイ王国にとって忘れられない出来事が起こりました。
それが、いわゆる「ベイオネット憲法(Bayonet Constitution)」です。
この憲法の名前は「銃剣(bayonet)」を意味し、カラカウア王(Kalākaua)が銃剣を突きつけられるような状況で署名を強いられたことからつきました。
憲法の内容は、王の権限を大きく制限し、議会(Legislature)の権力を強めるものでした。
しかも投票権を持つ人々が、外国人の富裕層に偏る仕組みになっており、王国の政治は次第に外国勢力に握られていきました。
このときカラカウア王は、自分が夢見てきた「ハワイ人のためのハワイ」という国づくりが遠のいていくことを感じたと言われています。
ベイオネット憲法は、王の心に深い傷を残し、ハワイ王国にとっても王権の大きな転換点となりました。

出典:Hawaiian Historical Society

王の最期──遠い地で閉じた瞳

ベイオネット憲法(Bayonet Constitution)によって権力を奪われたカラカウア王(Kalākaua)は、心身ともに疲れ果てていきました。
政治の混乱、王への批判、そして財政危機が重なり、王は体調を崩してしまいます。
そんな中、1889年には王政を守ろうとする人々のクーデター未遂も起こり、王国は不安定なままでした。
1890年、カラカウア王は健康を回復させるため、アメリカ合衆国(United States)へ渡りましたが、病状はさらに悪化します。
1891年1月20日、王はサンフランシスコのパレスホテル(Palace Hotel)で静かに息を引き取りました。
享年54歳でした。
王の遺体がホノルルに戻ると、街には多くの人々が集まり、悲しみに包まれたと言われています。
王は短い治世の中で、ハワイ文化を守ろうとした情熱を人々の心に残しました。
そして次の王位は、王の妹リリウオカラニ(Liliʻuokalani)に引き継がれることになります。

出典:Hawaiian Historical Society

民衆が見送った王──カラカウアの遺したもの

カラカウア王(Kalākaua)が亡くなった知らせは、ハワイ王国に大きな衝撃を与えました。
王の遺体がホノルルへ戻ると、街には黒い布が掲げられ、人々は悲しみの中で王を見送りました。
多くのハワイの人々にとって、カラカウア王は華やかな宴を愛する王であり、同時にハワイの文化や誇りを守ろうとした象徴的な存在でした。
フラ(Hula)の復活や王宮の電灯など、王が残したものはハワイの歴史に深く刻まれています。
しかしその一方で、王国は財政難と外国勢力の影響という深刻な問題を抱えたままでした。
王の死後、王位は妹のリリウオカラニ女王(Liliʻuokalani)へと引き継がれ、ハワイ王国はさらに激動の時代へと突き進んでいきます。
カラカウア王の治世は、華やかさと同時に王国の試練の始まりでもあったのです。

出典:Hawaiian Historical Society

ハワイ王国の未来へ──リリウオカラニ女王の時代へ続く物語

カラカウア王(Kalākaua)の治世は、ハワイ王国に華やかさと文化の誇りを取り戻しました。
王の即位からフラ(Hula)の復活、そして世界一周旅行まで、王はハワイを世界に知らしめようと努力しました。
しかし、その陰で王国は財政難と外国勢力の影響という難しい問題を抱え続けることになりました。
王が亡くなったあと、王位は妹のリリウオカラニ女王(Liliʻuokalani)に引き継がれます。
しかし、王国の運命はさらなる試練に向かっていくのです。
次の記事では、リリウオカラニ女王の物語を通じて、ハワイ王国が直面する最大の運命を詳しくお伝えします。

出典:Hawaiian Historical Society

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